人と言い争うのは嫌いです。言い負かしても、言い負かされても嫌な気分になってしまいます。
私と同じ気持ちを持つ人は多いのではないかと思っています。でも日本人以外と何かする時には、議論、批判はこちらが望んでいなくても避けて通れないと思うのです。であれば、上手に議論、批判とつきあう術を身につける必要を感じています。
先日、なぜ欧米では批判を歓迎するかについての背景を知ったので、忘れないように書いておきます。
空気を読む日本、意見を持たないと評価しない欧米。
大きく欧米とくくってしまいました。本当はお国柄によってそれぞれですし、欧米以外の国ともおつきあいが増えてきましたが、話をシンプルにするために一般化させてください。
海外留学に行った人の話などで、「意見を言わないと何も考えていないと見なされる」とよく聞きます。はっきりと自分の立場を明らかにして、批判的な意見も述べることが評価されます。対して日本の中では、和を乱す行為は悪という空気があります。「空気を読む」に代表されるように、皆に意見や行動を合わせられないと日本ではいろいろと不都合です。
なぜ、喜んで意見を対立させるのか?
私もそうやって人に合わせる、批判しない文化の中で暮らしてきたので、多くの日本人らしく議論、批判は苦手です。それでも英語圏の人と話すたびに、論理的に話せる、きちんと意見を言える必要性をひしひしと感じてきました。
それであれこれ勉強している間に、ああ、と納得したことがありました。
自分はAという考えを持っている。誰かに批判されると自分はAの問題、Aの弱点に気づくことができる。その弱点をどうやって克服するのか批判に対して考える事で、さらにAはよりよい物になる。またはBという新たな考えに至ることもある。
どうも英語圏の人たちは、こう考えているらしいのです。確かに批判を恐れてAという考えを大事にしまっておけば傷つくことはありませんが、Aが改善されることもありません。
そう分かってから、意見の対立がそんなに嫌な物ではなくなってきました。
もっと深く説明しているブログがあった。
このブログによると、この考え方はヘーゲルの弁証法に起源があるというのです。
このヘーゲルの弁証法、名前は難しそうですがとてもシンプルな考え方です。テーゼ(考え方)Aがあり、それと対立するテーゼBが出てくる。AとBの対立はやがて止揚(アウフヘーベン)され、その対立と止揚から新しい考え方Cが生まれる。ヘーゲルによれば、西洋の知的進化は常にこのように弁証法的な発展を遂げてきた、ということになります。ここで重要なのは批判の持つ意味です。反対意見に対する批判を自分の立場からだけ見れば、それはあるいは信念にも非寛容にも(ポジティブにもネガティヴにも)とらえられますが、一歩俯瞰した第三者的な立場から見れば、弁証法的史観ではそれは新しい考えを導き人類を進歩させる正義(原則いいこと)になります。
確かに難しそうな話しですが、頭のどこかに留めておきたいなと思いました。
言葉について考えています。