北海道胆振東部地震が発生して2日が経ち、札幌の街は約90%以上の電力供給が戻っているそうです。まだ断水・停電している場所があり、厚真町の被災者救出が続いていて胸が痛みます。しかし自宅にいると、全てが復旧して、まるで何事もなかったような穏やかな土曜日の午後に思えて、その事に戸惑っています。
私にとって、この地震は生まれて初めて体験する大きな災害でした。普段から一応の災害準備をしていたものの、正直なところ、どんな事が起こるのか、どんな気持ちになるのか分かりませんでした。今回実際に災害を体験して、覚えていることを残しておこうと思います。
地震発生時。事態の深刻さが分かっていない。
平成30年9月6日夜中の3時ごろ、かつてない揺れで目が覚めました。これは「大きい」とは思いましたが、体感では震度3か4くらいだろうと思っていました。(追記:後で発表された震度を見ると大体市内の大部分はそのくらいだったようです)
家族全員が起きてきて、家の中を点検すると、湯飲みが1つ割れたのと、棚の上の調味料入れがひっくり返っていたこと、そして普段から危ないなぁと思っていた本棚から、物や本が落ちていたこと以外は大きな被害はありませんでした。写真はその本棚の下ですが、ここ以外は本当に普段と変わりない我が家でした。
この時点でも自分たちが大きな地震を経験しているとは思いもせず、一応テレビをつけてNHKを見ていても最初は地震の規模も震源もよく分かりません。そのうち函館の明かりがあれよあれよと消えていく様子が写った直後、自分たちの家も停電して真っ暗になりました。これが私が経験した北海道全土の停電の始まりです。
「電池、大丈夫?」これからどうなるのか分からない不安。
真っ暗な中で、我々はありったけの懐中電灯やライトをかき集め、慌ただしく災害に備えた準備を始めました。マンション暮らしなので、電気が来ないと水も出ない可能性がありました。停電はいつ終わるのか?断水も起きるのか?食べ物は?飲み物は?通信は?全く予想がつきません。
家族の誰1人災害を経験したことがなかったので、おぼろげな知識を頼りに出来ることを準備し始めます。
一応7日間の食料と飲料水は用意してあり、その事はこの2日間、精神的、肉体的な安定を得るために役立ちました。
お風呂と家にあるありったけのバケツや鍋に水を集め、家にある乾電池の数を数えました。乾電池はいつも多めに準備していたはず・・・ところが単3は普段にどんどん使っているのに補充があまり出来ておらず、しかも普段使わない災害用のライトに入れた電池は液漏れを起こしている始末。後で分かったことですが100均のアルカリ乾電池は品質は悪くはないけれど高確率で液漏れを起こすらしいのです。
100円アルカリ電池は性能的には、国産の物と遜色なく、電圧も安定しており、使用可能時間が短いわけでもない。となると、電池は100円均一でOKって感じになりそうですが、さにあらず。
100円均一のアルカリ電池の液漏れ破損率はほぼ100%。これは使用中だろうが、使わずに保管しておいても同じ。
引用元:まぐまぐニュース(無料メルマガ『アリエナイ科学メルマ』の著者で科学者のくられさん)
電池が足りないかも知れない・・・。
これが一番始めに感じた不安でした。そして本当にスマホの電池がなくなっていくのを見ているのが一番メンタル的に辛かったです。その時はスマホが私の唯一の外とのつながりだったからだと思います。
▼適当にストックしていた我が家の電池入れ。反省・・・。
災害の渦中にいると、自分たちの置かれた状況はよくわからない。
電源が全て落ちてしまった後、情報源はスマホでつながっているインターネットと手回しのラジオのみになってしまいました。
スマホにはradikoのアプリが入っており、普段はこれでラジオ聴いていたのですが、スマホのバッテリーがなくなるのが怖くてradikoは使えませんでした。
手回しラジオは回して10分もすると止まってしまうので、ニュースも四六時中聞いていられません。私に入ってくる情報はLINEで頻繁に普段から交流している札幌の英語先生のグループ(札幌各区の様子)、地震を機に復活したママ友のグループ(近所の様子)、そしてツイッターと手回しラジオだけになりました。早朝にニュースで地震を知った大阪の池亀先生(同じ英語先生のLINEグループに参加)が、出勤前までずっとLINEでアドバイスやニュースを流してくれているのも助かりました。
体験して初めて分かったのですが、災害のさなかにいると周りの状況ってよく理解できないのです。何となく清田区の液状化や厚真町の土砂崩れのニュースは聞いているのに現実味がなく、事の大きさに気づいたのはテレビが見れるようになった後でした。
実家や親戚、本州の友達が心配して(しかも返信不要など配慮して。ありがたいことです。)連絡をしてきても、「?」。連絡もらうくらい本州でも騒ぎになってるのかな?と、不安でいながら自分たちの状況が分かっていない変なバランスのなかで過ごしていました。
想像と現実の違い。
想像では用意した非常食を食べているはずですが、実はそれには全く手を付けませんでした。
いつ終わるか分からない停電、今は水が出ているが断水の噂もある。どんどん庫内の温度が上がる冷蔵庫。カセットコンロのカセットの在庫は結構いけそう。それらの事を考えて、まず冷蔵庫の中身を食べきることにしました。1日目の午前中はひたすら未加工のものは火を通し、洗って食べられるように準備をしていました。ご飯もママ友に教えてもらって、初めて鍋で炊いてみると、これがまた美味しい。2日間は新鮮な野菜、モリモリのタンパク質と結構充実した食事をしていました。友人の中にはどうせ溶けるからと冷凍庫のラム肉でジンギスカンをした人もいました。
普段食べているものをお腹いっぱい食べられたのは、本当に良かったと思います。これも気持ち的にずいぶん自分たちを支えてくれました。
でも1日目の夜には冷凍庫入り口の果汁系アイスは溶け始めたので、1~2日過ぎると一気に非常食にチェンジしていたかもしれません。
停電で信号がなくても出かけなきゃいけない場合も。
停電すると当然信号も動作しなくなるのですが、多くの人が必要に駆られて車を運転していました。コンビニ、スーパー、足りないものを買いに行ったり、離れた家族の様子を見に行ったり。
私もガソリンが底をつきかけていたので、先の事を考えてスタンドに出かけましたが、信号がないと道を渡るのが怖い!もちろん皆譲り合って走るのですが、すごく神経を使いました。
どこにいっても必要なものが手に入らない。避難所は安心か?冬だったらどうなっていただろう?
一番恐ろしいと思ったのは、どこへ行っても必要なものが手に入らない事でした。私はたまたま水や食べ物、灯りを用意していたので、心細いながら家にいることが出来ましたが、近所のスーパー、ホームセンター、コンビニ、ガソリンスタンドと、どこも長蛇でした。500人の列もあったと聞きましたが、必要なら並ぶしかありません。
気温がマイナスになる冬だったら、みんなどうやって並ぶんだろうと思うと恐ろしくなりました。
以前は困ったら避難所に行けばいいと思っていたのですが、今回の地震では近所の他のエリアが通電、水が使えたにもかかわらず、たまたま避難所のエリアの復旧の方が遅く、断水、停電になっていました。しかも食料が足りなさそうというニュースも目にして、避難所はあくまで最後の手段でしっかり自衛しないといけないんだと気づきました。
一方で、避難している人の数がこのままの水準で続いた場合、避難所などでの備蓄が底をつき、7日の夜までに食料の不足がおよそ2万5000食分、飲料水の不足が500ミリのペットボトルでおよそ2万3000本分に達するおそれもあるということです。
経験してみると、色々想像していたことは違うものでした。この地震が冬でなかったのは本当に不幸中の幸いだったと思います。また地域によって断水のあるなし、通信の環境、復旧のスピードが全く違うのも驚きました。
今回の地震を経て、冬の装備を見直すつもりです。
こんな記事も書いています。