「教えること」が仕事になってから、「ほめる」について考える機会が多々あります。
「ほめる」難しさは、教えるようになって感じるようになりました。
ほめられると生徒さんはやる気が出ます。ほめること自体は悪いことではありません。
ある時、ある生徒さんをほめると、それを聞いている他の生徒さんが一瞬暗い顔をすることに気付きました。
特定の誰かばかりほめているからではありません。
集団の中で誰をほめると、残りのほめられなかった人の表情が曇るのです。
気のせいかと思うくらいの、一瞬表情に浮かぶ僅かなサインです。
この「ほめる」行為に付随するモヤモヤしたものは、ずっと何だろうと心に引っかかっていたのですが、先日インプロの研修で、その原因に気付きました。
インプロの解説に、ヒントがあった。
先日参加したインプロ研修でファシリテーターをされていた「すぅさん」は、元小学校の先生です。教職についていた方ならではのアドバイスは大変勉強になりました。
ワークショップの中で私達が即興で課題をしている時に、すぅさんが私達の表現を見て、「いいな!好きだな!」と直感的に思ったのに、ぐっと飲み込んだな・・・と思った瞬間がありました。私だったらほめる瞬間です。
その直後に、すぅさんから「基本的に私はほめません。なぜなら誰かをほめると、同時にほめられなかった人に何かが足りなかったと言うサインを与えてしまうから」という話がありました。
生徒というものは、無意識に教える人が何を良しとして、何をダメだと思っているか注視しています。特に子どもなら尚更です。
生徒は、自分がやっていることが先生に評価されるかどうか、いつも気にしていることにハッと気付きました。
確かに私自身だって、習い事などでホメられた人を見て、先生が望むように出来ない自分にちょっと凹んでしまいます。
ほめないのではない。何をほめるか?
ほめるという行為は、ほめられない人にもメッセージを渡してしまうというのは分かりましたが、一切ほめないというのも現実的ではなくて困っていると、すぅさんから、こんな話がありました。
「私がほめる時には、やってみようとした事、小さな変化をほめます。」
人をほめる時には、つい成果が出た時、うまくいったタイミングでほめてしまいますが、そこに到達するまでには、その人はまず、挑戦してみるというハードルをこえています。ただ、挑戦した結果は、うまくいく時も、うまくいかない時もあります。
それに対して、「そのトライ、私は見てたよ。」という意味で、ほめる。
さらっと、ほめる。
誰かが見てくれていたら、がんばれる。
長らく「ほめる」行為に何か足りないものを感じていたのですが、この事を聞いて、「ああ、これを探していた。」と思いました。
ほめるという事は、あなたの事をみているよというサイン。
教える人は、あなたの変化見ているよ、と伝えるだけでいいのだと思いました。
すぅさんからは、それが、教える人の「ほめる」のあり方なのではと教えてもらいました。