Google翻訳とか音声認識の技術がどんどん進化してきて、英語って今後勉強する必要があるのかな?と時々自問自答します。英語を学びたい人は多いけれど、英語が出来るようになるために多くの時間や労力をかける価値はあるのかな?
何年もそのことは考えていますが、いつも「全てを翻訳機に頼りたくないし、頼れない」という答えにたどり着きます。
ひとつは「あなたのことが大事だよ」とか「私のことを分かってよ」みたいな大事な気持ちを伝えるのに翻訳機を通すべきではないと思っています。だって国際結婚していつも翻訳機に頼る夫婦なんて想像できない。拙くても直に伝えるべき言葉や関係ってあるんじゃないかな。
もう一つは「文化の違いは翻訳機じゃ翻訳できない」からです。
日本はハイコンテクスト、英語圏はローコンテクストな文化。
「空気を読む」と言いますが、日本人は全てを言わなくてもお互いに察し合うのが上手です。言葉の特徴のせいでもあるでしょうし、単一民族、単一文化の国だからでもあります。
対して英語圏はどちらかというと「言わないことは分かってもらえない」のが前提の文化です。
この事を表す言葉に、ハイコンテクスト社会(高文脈社会)とローコンテクスト社会(低文脈社会)があります。
この概念は、アメリカ合衆国の文化人類学者エドワード・ホールが『文化を超えて』(1976年)[1]で世界中の言語コミュニケーションの型を高文脈文化と低文脈文化に分類したことに始まる。
なお、「高」「低」という用語が用いられているが、どちらか一方が他方より優れている、劣っているということを表すものではない。
高文脈文化のコミュニケーションとは、実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式であり、その最極端な言語として日本語を挙げている。
一方の低文脈文化のコミュニケーションでは、言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる。最極端な言語としてはドイツ語を挙げている。
高文脈文化はより抽象的な表現での会話が可能であるが受け手の誤解などによる情報伝達の齟齬も生じうる。他方、低文脈文化では具象的な表現を行い、会話の文中に全ての情報が入っているため、行間を読む必要もなく、受け手は理解できる。
「言わなくても分かるよね」に慣れている私達と、「言わないと分かってもらえない」のが当たり前の人達の間でコミュニケーションするときに、この差があるのを知っていることはとても大切だと思っています。
翻訳機が言葉を翻訳することは出来ても、この差を埋めることはまだまだ難しそうです。
言語化していないけど意識している英語先生はたくさんいる。
仕事柄、児童英語の先生方と話す機会が多いですが、生徒を「ローコンテクスト文化に適応させる」ことを意識されている先生はたくさんいるように思います。そのための訓練を無意識にレッスンに加えている感じがします。
- ハッキリと人前で自分のことを話せる
- 相手が初対面や他言語の人でもオープンに接する
- 異文化に興味を持つ
- 論理的に話す
- なぜそう思うのか理由や根拠を言える
なんだか当たり前のことばかりですが、出来ていない子どもさんは思いのほか多いです(大人だって同じです)。家庭や学校も含めてハイコンテクストな普段の生活では訓練する必要があまりないので当然といえば当然です。
「異文化との接し方を教えます」といっても生徒が来ないので「英語を教えます」になってしまうけれど、そういう心構えや態度こそ大切だと思われている先生は多いんじゃないかな。
英語よりも大切だと思う、異文化とのつきあい方
ぶっちゃけて言うと、これからの子どもには、言語としての英語は選択科目でいいから、「自分から言わないと分かってもらえない」に対処する教科があったらいいのになと思ったりします。どんどん世界は小さくなっているのに「言わなくても分かるよね」しか知らない子ども達が世界と渡り合っていけるのかとても心配です。
大人にとっては、言葉としての英語より、英語を使う人の思考パターンや論理的な話の運びなんかを教えてくれるものがあったら、そっちのほうが勉強する価値がありそうですが、どうなんでしょうか。