児童英語の先生を始めたころ、子どもに英語を習わせる必要があるのか結構真剣に考えた時期がありました(今も折々に考えています)。
そのころから翻訳機も出来始めていましたし、日本で暮らす限り英語が出来なくても不自由せずに暮らせています。「長い年月をかけて英語を勉強する価値があるのか?」という事を考えておかないと胸をはって教えられないな、という気持ちがありました。
その時に考えていた未来が、思ったよりずっと早く来ている!と最近思うのです。そして実際にその光景を見ても、変わらない事、考え直した事を書こうと思います。
変わらない事:翻訳機を通して、大事な気持ちは伝えられない。
今も変わらずに思っているのは、翻訳機を通して大事な気持ちを伝えるだろうか?という事です。
もし最高に気の合う友達が英語しか分からなかったら?もしパートナー(夫、妻)が英語を話す人だったら?
心が近い人とは何も通さず話したいし、そうするべきだと今も思っています。プロポーズを機械を通してして欲しい人なんていないし、夫婦喧嘩を翻訳機を使ってやるなんて想像できません。
英語を話す人と本当に仲良くしたいなら、やっぱり自分も生身で話したり聞いたりできないと、と思う気持ちは変わりません。
早く来た未来:日本にいても英語を使うようになる
当時予測していたのは、これから国内外の人の行き来が激しくなるということでした。子ども達が大きくなる頃には、日本にいても多くの外国の人がやってきて英語の要らない仕事に就いたつもりでも英語を使わなければならないだろうと思っていました。
でも予想より遥かに速いスピードで「未来」が来てしまい、どこでも日本語以外の言葉を使って買い物や食事をする外国人観光客を目にするようになりました。特に冬にニセコなど行くと日本人客は3割位だそうで、どこにいっても日本語以外の言葉が飛び交っています。
でも、働いている日本人はみんな必要に迫られればちゃんと英語を使っています。高齢のタクシーの運転手さんでも、年配の店員さんでも、みんな出来る範囲でやり取りしています。タクシーの運転手さんに「困ることはないですか?」と聞いたら、決まったやり取りが多いので意外と大丈夫だったと教えてくれました。どなたも自分の持っている英語力で職務を全う出来ているのを見て、その点では心配をしすぎていたのかなと思っています。
早く来た未来を見て修正したこと。
先日泊りがけで北海道の地方にスキーに行ったのですが、ホテルのロビーで座っていて思ったことがありました。
そのホテルにはたくさんの英語を話す人が働いていて、それぞれ色々なサービスに従事しているのですが、語学力によって職域が違うのだという事に気が付きました。レストランなど比較的簡単な応対で済む仕事、数か国語が必要だけれども日常会話位で済むフロントの仕事、ほぼ宿泊客と話をしない客室係とそれぞれ必要な英語のレベルが違います。
そして、そのホテルは外資系企業に買われて経営者や管理職は日本人ではなくなりました。それに伴って経営の中枢で働く人は世界中からリクルートされているようでした。日本勤務なので日本から応募する人も多いでしょうが日常会話程度の英語力では採用されるのは難しいだろうと想像できます。
英語が必要な未来というのは、私が思っていたように単純でなく、どれくらい意志疎通できるかによって職域や収入が違うとその時実感したのでした。
まとめ
そんな事をつらつらと考えていたのですが、そのうち翻訳していることに気が付かないくらい自然な翻訳機や、言葉の違いを飛び越えられるツールが出来るかもしれません。
そうなったら英語という言葉を勉強する意味はなくなります。しかし、言葉の壁がなくなっても私達は違う考えや習慣の人と一緒に何かする事に慣れていません。言葉の勉強ではなくて、違う価値観の人と上手くやっていく訓練がもっと大切になっていくのではないかと思っています。